目黒区内の地名の由来
参考資料 月刊めぐろ(昭和55年)より
地 名 の 由 来 

地名は、単に場所を示す記号ではない
その土地の地形、風土、人びとのせ生活や信仰の姿、経済的、政治的条件など
地域の文化や移ろいの歴史が深く刻み込まれている。

地 名
現地域
地 名 の 由 来
油 面
あぶらめん

中町1丁目、2丁目
中央町2丁目の1部
江戸時代の中ごろから、このあたり一帯では菜種の栽培盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油を奉納する事によって租税が免除されていた。油免が「油面」になったとえられている。
別 所
べっしょ

青葉台1丁目、上目黒1丁目、中目黒1丁目にあたる一帯
一般に集落の本村に対して追加開墾を許された土地意味し、行き詰まりの場所を指す。上目黒の本村の川向こうにある急峻な傾斜地であるところから遅れて開墾された行き詰まりの地であったことによる。

ふすま

八雲の1,2.4,5丁目にまたがる地域

地名の由来については次の諸説がある。
1、この地に古くからあった民間信仰の神の名「塞坐大神」(フセギマスオオカミ)のフセギマスが転訛した。
2、この地が往古から馬の飼料の”麩”(ふすま)の産地として知られていた為。
3、湿地に馬が踏み入れたところから、”伏馬”(ふしま)と呼ばれた。
4、地形上、呑川の本支流の谷間が多いところから”間(はざま)"が転じた。
5、いくつかの丘陵が並ぶこの土地の起伏の様子が“衾”(掛け布団)に似ていた。
等の記述があり定説はない。

鷹 番
学芸大学駅の東から目黒通りに至る一帯
鷹番1,2,3丁目、中央町1丁目、碑文谷5丁目
江戸時代に目黒筋の鷹場の監視に当たる“鷹番”が居住していた。または監視の為の番小屋があったという説が有力。
三 田

港区三田と目黒区三田一帯

古代、武蔵国荏原郡に“御田郷”と呼ばれる土地があり、大化の改新以前の天皇の直轄領地“屯田”に由来する三田村は港区の三田とともに、この「御田郷」に属していたと推定されている。両区の三田は春日神社(港区三田にある)の氏子という親しい関係にあります

洗 足

品川、大田両区の間に角のように突き出た区境のまち。
洗足1丁目、2丁目の地域
大田区の南、北千束とともに、中世にはこのあたり一帯の地名が「荏原郡千束郷」であった。
この千束については、この地にある大池(洗足池)が水源地として灌漑に利用されていたからとか、千人の僧を招いて供養を営む法会“千僧供養”の費用に当てる免田であった、などの説がある。
「千束」の一部地域が「洗足」となったのは、日蓮が池上に向かう途中、ここの大池で足を洗ったという伝説による。
東 山
東山1,2,3丁目の一帯


古い歴史を持つ地名が次第に姿を消し、忘れ去られていくなかで、今も脈々と生き続け、時とともにかえってその比重を増していく地名も幾つかある。「東山」はそんな数少ない地名の一つである
もとは、旧六カ村の一つ、上目黒村の小字名で、当時の字「東山」は現在よりかなり狭く、また、その地名の由来も、今は地名としては姿を消した、旧上目黒村の中心集落「宿山」の東方の地という程度の理由から名付けられたものといわれている。
東山貝塚の発見で「東山」の名が一躍知れ渡る事となった。
 

自由が丘

自由が丘1,2,3、丁目緑ヶ丘2丁目、八雲3丁目の一帯
畑と水田と林の田園地帯であったこの地に、昭和2年、東横線、大井町線が開通してから、大きくかわり、商店や住宅が建ち始めた。
昭和2年11月に創立された「自由が丘学園」の名称が地名の発端になったという。
大 橋

大橋1丁目2丁目の一帯
元目黒川に架かっている街道上の橋の名(大橋)からとった。昭和40年に住民投票などの結果きまった。
柿の木坂

柿の木坂1,2,3、丁目の一帯
環7通りの交差点から都立大学駅あたりまで下る目黒通りの坂が「柿の木坂」である。この坂の名をとって昭和7年に町名が決まった。
五本木

五本木1,2,3丁目一帯
室町から鎌倉時代にさかのぼってよばれていた地名。五本の大樹があり、この地の特徴をなして鎌倉道を往く人々の目じるしになっていたことから。
菅 刈
大橋1丁目青葉台1〜4丁目、上目黒1丁目の一帯 鎌倉時代には、このあたりに菅刈庄と呼んだ荘園があったことに由来する地名である。
八 雲

東が丘1〜2丁目、八雲1〜5丁目の一帯
八雲にある氷川神社で祭っている素戔鳴尊が櫛名田」姫の新居を構える時に、詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるそのその八重垣を」という日本最初の和歌といわれる和歌の言葉から「八雲」をとり町名となった。
千代が崎

権之助坂上から恵比寿方面に向かい、三田児童遊園あたりまでの目黒川沿いの台地
武将新田義興が足利基氏等に謀られ、多摩川矢口渡しで殺された。義興の死を知った側室の千代は「死ねば義興の側に行ける」と悲しみ 邸の庭の池に身を投げた。千代を哀れんだ人々は、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなった。
大岡山
おおかやま

大岡山1丁目、2丁目
北から南に長く続く小高い丘の地形が、この名前の由来と言われています
田切
たぎり

五本木1丁目、2丁目
から祐天寺1丁目2丁目にまたがる地域
「田切」とはゆるやかな傾斜地に川が流れ、その両岸ががけのようになっている所を言い、古語で「たぎる」とは傾斜地やがけなどで、水が早く走り流れ落ちるさまをいう。昔蛇崩川とその支流の中の沢の流域で「たぎられた」ところがあり、「田切」と言う地名が生まれた。
烏森
からすもり

上目黒3丁目14〜27
36〜44番地
数百年前から 宿山の氏神としてまつられてきた烏森稲荷神社だといわれている
唐が崎
からがさき
中央町1丁目2丁目 徳川時代からあった地名である。由来は定かでない
台地の端が突き出ている地形から起こった地名だろう
伊勢脇
いせわき
上目黒2丁目全域と1丁目24〜26番 目黒村、目黒町時代の字名。伊勢神宮の祭神、天照大神を祭る天祖神社があり、境内を「お伊勢の森」といったところからきている。
青葉台
あおばだい
青葉台1丁目〜4丁目の一帯 付近に樹木が多く、木芽時ともなると、一帯が青味がかった風景になるため、そのように命名されたらしい。新しい地名
碑文谷
ひもんや
碑文谷1丁目〜6丁目の一帯 @八幡宮境内の稲荷社に保存されている碑文谷石を起源とする説
Aこの地は鎌倉・室町時代のころから桧物を業とする職人がいて、それが地名になった
B「世田谷城名残常磐記」にある「秘文の谷」が語源になり碑文谷となった
田道
でんどう
中目黒1・2丁目
目黒1丁目と三田の一部地域
地名の由来についての資料に乏しく推測の域をでないが
@ 平将門が東国に叛逆を企てた頃、この地の目黒氏は参加しなかったがその目黒氏の一族の内に 田道源吾という武士がいた。そこから田道の地名がおこった
A 目黒川流域に連なる水田にちなんだ地名である
B 田んぼの道、つまり田道を音読して田道と呼ぶようになった
子ノ神
ねのかみ
南1〜3丁目の一帯 南1丁目の高木神社に由来している。この神社は屋敷神でいつの頃からか現在地に移され、子ノ神を祭る地域の氏神になり地名となった
駒場
こまば
駒場1〜4丁目と青葉台4丁目 このあたり一帯は広大な原野で、古代から中世にかけて、良馬を多く産出する牧場の地であったので駒場とよんだ
緑ヶ丘
みどりがおか
緑ヶ丘1〜3丁目と自由が丘1丁目の一部 この辺りは、自然林におおわれた丘陵地帯であった。そこから、緑の木立ちの多い高台ということで緑ヶ丘という地名がついた
蛇崩
じゃくずれ
祐天寺1丁目1〜24番上目黒4丁目1〜26番28〜45番あたり 「新編武蔵風土記稿」によると、「昔大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことから、この地名が生まれた」と記されている
また別説では「砂崩」が「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈折した川の状態から「蛇崩」の文字が当てられたという
中根
なかね
中根1〜2丁目
緑ヶ丘1丁目の一部
山の峰や尾根から平地に向かって成す斜面が、まさに平地に届こうとするところが「根」といわれる。この根は住居に適した場所である
「中」は江戸時代の衾村の中央に位置する「根」ということで「中根」と呼ばれていた
六畝割
ろくせわり
目黒本町1丁目の地域 この地域はかつて「こなべの」と呼ばれていた。
「畝」とは田地面積の単位で、1畝は一反の10分の1(約1アール・60坪)である。江戸末期まで、この付近一帯が樹木でおおわれ開墾する者もいなかった。
そこで、明治の頃、碑文谷村戸長、角田長広氏が村の共有地であった一帯を六畝づつに区切って村の農民に与え、強制的に開墾させたことから、この地域を六畝割とよぶようになった
大原
おおはら
東が丘2丁目と八雲5丁目の一部地域 目黒区が誕生した時に新たにできた地名
このあたりから、世田谷区にかけての一帯は、原野でウサギ、野鳥などが沢山いた大きな原っぱであったことにちなんだ地名である
祐天寺
ゆうてんじ
上目黒4・5丁目中目黒3丁目の一部地域 昭和43年住所表示施行によって、名刹「祐天寺」にちなんでつけられた地名



めぐろの文化財 他 目黒区教育委員会 ・郷土資料室の文献を元に作成