目黒区タウンガイド
目黒区大橋
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「大 橋」 地名の由来

 頭上を首都高速、地下を新玉川 線が走る交通の大動脈 玉川通り。

目黒区を通る唯一の国道であるこ の通りが山手通りと交差する区内 きっての交通の要路 「大橋」 の歴史は、玉川通りの変遷を抜きにしては語ることができない


 玉川通りの前身は、江戸と相模 国 厚木 とを結ぶ 厚木街道″

この 道を、相模川でとれた鮎を魚河岸 へ急送する 鮎かつぎ=@が往来、
また、氷川神社の石段下の道標に その名が残るように、
相模大山の 阿夫利 (雨降) 神社への参詣路、 ″大山道=@としても利用きれた。

 なお、渋谷区境にかけての上り 坂は、当時は大きくう回した急坂 で、
さすがの 鮎かつぎ=@の若者 たちも駆け上がるのに苦労したと いう街道随一の難所。

このため「大 坂」の名で呼ばれてきたこの坂が 
現在のようになだらかで真っすぐ な坂に生まれ変わったのは
今は 姿を消した路面電車の玉川線が開通した明治四十年のことである


 また、明治の中ごろから終戦ま で、大橋周辺には軍の施設が集中。
このため、沿道には、軍服店、軍 隊用雑貨商、馬糧商、入隊除隊の
記念品店などが軒を連ね、さなが ら軍隊の門前町≠フ感があった。
 
さて、「大橋」 は、元は目黒川に 架かる街道上の橋の名。
これが玉 川線の停留所名となったことから、
早くからこの他の呼称として親し まれていたが、
正式の町名となっ たのは、区内の住居表示のうちで 最も遅く、昭和四十四年一月。
新 町割案をめぐつて住民の意向の調 整が難航し、
「青葉台四・六丁目」・ 「南駒場」・「大橋」 案についての 住民投票なども行われた

月刊めぐろより


大 橋 遺 跡


遺跡所在地:目黒区大橋一丁目
主な時代:縄文時代中期

遺跡の特徴
大橋遺跡は過去2回('83年、'92〜95年)の発掘調査が行われており、縄文時代(約4000年前)の住居跡80軒、土坑270基など多数の遺構が発見された大規模な集落跡であることが確認されています。


この地は現在第三機動隊の敷地になっていますが、明治から終戦までは旧陸軍の施設が建てられており、その建物跡や配水施設、ゴミ穴などが見つかっています。さらにそれ以前の江戸時代では、この付近一帯が将軍の鷹狩りの場(御鷹場)で、将軍が休憩する屋敷があったと伝えられています。今回の調査ではその屋敷を区画する大きな堀が見つかっています。

 縄文時代では、2次調査の際に80軒以上の住居跡が発見されており、この地域の中でもかなり規模の大きな集落跡であったことがわかっていましたが、集落の西端に位置する今回の調査区からは、縄文土器5000点以上の出土を中心として、住居跡5軒のほか、埋甕や土器片を敷き詰めた穴などが発見されて、大橋遺跡の縄文集落の一端をかいま見ることができます。

東京都埋蔵文化財センター調査研究部より




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